ちょっと長くて重めのお話です。
初めましての方もお久しぶりの方も、こんばんは(もしくはこんにちは)。
はい、前回ちょっと更新が順調な雰囲気を醸し出しといてのこの開きようです。
逆に定期ですね。ある意味順調です。
突然ですが、今回は花藤のこれまで過ごしてきた時間の中でもかなりの個人的なお話になります。
前から割と平気で色々語りますが 笑、今回はちょっと特別な打ち明けになるかも知れません。
ちょっと重めの、あと体にまつわるちょっとエグい話です。
苦手な方はUターンをオススメいたします𝓶(_ _)𝓶
実は花藤は
子供の頃から耳がよろしくないです。
そしてこのことは、私の身近な人でも知っている人は少なく、さらに言えばどんな風に悪いかまで伝えてる人はもっと少ないです。
理由は1つです。
医師から私に診断されていた聴力は「軽度の難聴」で、どのくらい軽度かと言うと、日常生活にほぼ支障のない程度の悪さだったため、とくに人へのサポートを必要としてなかったからです。
原因は幼少時にこじらせた中耳炎でした。
軽度であれば、たまに身近な人の声や言葉を聞き返すくらい、そんなに心配しなくても大丈夫と医師からは繰り返し言われてきました。
もともと物心つく頃から親の呼びかけやテレビの音への反応が悪かったり、言葉の覚えも遅かった幼少時でしたが、始まりは、7~8歳頃に学校で受けた聴力検査が思わしくなく耳鼻科で見てもらったところ、急性中耳炎と診断されました。
当時、私がみてもらった医師の手術は泣きわめくほど痛かったため(苦笑)
術後、完治までの通院に耐えきれなかったんですね。
もうトラウマ並の痛さでした。
ついでに診察台でギャン泣きした娘に母もトラウマでした。
(おかん、その説はごめんよ)
完治するまで辛抱しなかった中耳炎は再発、さらに悪化しやすくなるそうで、次に私が耳鼻科を訪れたのも、きっかけは中学校での聴力検査でした。
あまりの私の聞こえの悪さに心配した保健医が、改めて私に病院へいくよう説得してきたからでした。
そして再び別の病院で通院をしますが
またもや痛みで苦しみます。
通院から間もなくして、痛みと根治へのゴールが見えず、メンタルもかなり凹まされたころ
懲りずに通院をまた諦めようとしていた私に、母が別の病院をすすめてきたのでした。
その病院の先生と出会ってから、もう20年近く通っています。
これまではとくにどれほどの症状か説明されることもなく、いきなり鼓膜切開をされるパターンが多かった中で(しかも麻酔しても激痛)、その先生は私の耳を診るなり「どうしてここまで我慢したの?」って聞いてきました。
病院行くと、痛い手術をされる、と
だから行きたくなかったと話すと
「あー、急性中耳炎の切開は痛いでしょ」と言われました。
続けて、「でも君は急性中耳炎ではないんだよ」と。
思わずハテナが頭のなかで並ぶ私。
ここからその先生の、ぶっきらぼうな話し方に反しての、至極丁寧な説明が始まりました。
途中から待合室にいた当時の母も、「心配だろうし一緒にどうぞ」と診察室へ。
結果から言うと、私は急性中耳炎から滲出性中耳炎へと既に悪化していて
さらに鼓膜が奥の方へと癒着し始めようとしている、中耳炎のなかでもかなり悪化が酷い状況でした。
ここまで悪化した理由は…幾度か鼓膜切開の手術までしたにも関わらず、完全に自分の完治への忍耐不足でした (汗)。
今の先生に出会った頃にはもう、はっきりと自分は人の声が聞き取れていない自覚があったため
今度こそ治したいという気持ちが固まっていました。
しかし先生から出た言葉は
「ここまでくると正直なところ、聴力が戻っても軽度難聴までです。
正常な、健康の聴力はもう戻らないと思ったほうがいいです」
言葉を一瞬失う私と母。
「とはいえですね、軽度難聴は、日常生活にはほとんど支障をきたしません。娘さんはまだ未成年で若いし、限りなく完治に近づく希望はあります。ただ、とても時間が掛かります。今度は諦めずに頑張ってほしいです。私のほうも出来るかぎりのことはしますから。」
と。そしてその日さっそく鼓膜にチューブを入れる手術へ。
何と、それが痛くないことに目から鱗が出るほどびっくりしました( ຶ- ຶ)︶ㅇ
あんなに痛がって苦しんだ私の時間は…?
もしかしてこの先生の腕がよいのか…
と子供心に少し感動しました。
それはさておき
本当に大変なのはここからでした。
本来なら鼓膜から耳管への通りをよくするために一時的な療法でわざわざ鼓膜に穴をあけているため
鼓膜と耳管の間の炎症や、水が出るなどの症状がなくなれば、あとは自然とチューブが外れるのを待つだけです。
が、これがそうもいかず。
何せ慢性中耳炎よりもずっと先へ進行していたので、なかなか症状が改善するとまではいかず、両耳を数年に渡って手術を繰り返しました。
チューブを入れればすぐ毎度馴染むわけでもなく
切開した鼓膜付近から出血をし、点耳薬でその都度その処置をしたり
チューブを入れることで聞こえる音量の肥大に耐えられず頭痛や吐き気がしたり
耳管の状態が安定していないのにチューブが抜けてしまうなどのアクシデントもあったりで
長い長い治療生活が始まりました。
それはそうです。他の病院の先生が引くくらいの悪化の状態で
それがどういう状態を意味するか、この先生が身をもって教えてくれたのです。
あっという間に成人してしばらくの頃に、ようやくチューブが抜けて耳管の中の通りも良くなってきました。
このまま落ち着いて様子を見ていきましょう。よく頑張りましたね、と
変わらずぶっきらぼうな先生の、初めての診察終了の言葉でした。
それからも定期的に通っていたのが1、2年ごとになり
2年前から気になる症状がではじめ、昨年に聴力検査をしたところ
変わらず軽度の難聴で落ち着いていました。
状況が急に変わったのは、ここ1年ほどの間でした。
仕事をしていて聞き取れないことが突然増えていきました。
コロナ対策のマスクや、フェイスシールド、アクリル板などの遮断によるものかと考えていましたが
今年にはいってすぐ側にいる人の言葉が聞き取れないことに気づきました。
そして何より
ちょっと自分の喋り、滑舌もすごく重たくなってきたことも感じていました。
7月の頭
再び訪れた病院で、ずっと見ていてくれた先生は簡単な問診ですくっと立ち上がり、触診へ。
その瞬間、先生の顔つきが変わったのも分かりました。
いつもの良くない症状に続き
先生のほうから「今回も聴力検査をしましょう」と、テキパキとした流れで検査室へ。
検査をしながら、助手さんの顔が見える小窓から
先生が何度も様子を見に来てるのも分かりました。
(あんなに淡々としていた先生が…いつもと違う)と不安でドキドキし始める私。
かなり具体的な検査をいくつかしてもらった後に
「残念ながら、軽度難聴から中度難聴へと進んでます」と言われました。
「中度難聴は、もう補聴器が必要となってくる段階です」
( ຶ- ຶ)………マジ?
以前にも少しだけ症状が悪くなったとき
「君の鼓膜の薄さでは、もう手術はほとんどできない。」とはっきり伝えられました。
手術をしてのハイリスクに対して、今の鼓膜ではそこまでの回復はあまり望めません、とのことでした。
そのときに
「場合によっては、あなたの今後の人生で補聴器がいることになるかもしれない。
だけどそれは、高齢で難聴になる人よりも、少し早いのかもというくらい。
今の段階であれば、そんなに急に悪くなるものではない。」
ともあらかじめ言ってもらっていました。
急な難聴の進行に、私だけでなく先生も驚きの顔がはっきりと見えました。
「この難聴の進行に、ストレスなど外からの原因は可能性としてありますか?」と私が聞くと
「うーん、なんともいえないかな…」と濁した様子でした。
結果から言って、難聴の進行を甘く見てた自分もいたのは確かなので
現在、先生には補聴器外注の紹介状を書く準備をしてもらいながら
周囲の人への今後のサポートを相談していきつつ、手続きを今後していく流れになっています。
例えば1対1の会話や
2~3人の談笑、静かな場所などのミーティングなどは
ごくたまに聞こえ方がつまづきますが、問題なくコミュニケーションできます。
そこから少し離れたり
他の音が混じった中での早いスピードの会話となると、厳しさが増えてきて
特に仕事場では、大事な指示が即座に判断付かなかったりと危ぶまれることが増えてきました。
( ຶ- ຶ)。ㅇ○(どうりで最近やたらミスや疲労がものすごく増えてきたはずだった………。
このまま補聴器をつけて仕事をしたいと話したら、お店の責任者の人たちはどんな顔するかな…
と一瞬不安になりました。
しかし今の職場、なんと
偶然店長が難聴の人への知識がとても深く
私が補聴器つけて仕事をすることになっても
全然大丈夫!とカラッと受け入れてくれました。
(実を言うと、私の耳の不調にいち早く気づいたのはこの店長さんでした。
幼少期の中耳炎も知らせてませんでしたが、最近様子が変だから病院いってきなさい!と背中を押してくれました。
約半年しか一緒に働いてないのに凄い洞察力です)
おかげで周りの人の理解も得られたようで助かりました。
接客業なんて、今コロナの対策で全然お客さんの声聞こえないよねーーー!
気にしない気にしない!と言ってくれる人もいて、いい職場でよかったな…と思います。
と、いうわけで
長々、長々と書きましたが
まだまだ今後も花藤の生活環境は変わっていくことが多そうです。
………補聴器ってどれくらい高いのかな………( ˙-˙ )笑
周りの人に恵まれた環境に、今でも感謝です。