12月25日の過ごし方。
今年は日曜がクリスマスイブでしたね。
皆さんは素敵なクリスマスを過ごせたでしょうか?
私はがっつり仕事してました(笑)
お客様でも楽しそうな方々を見ながらのこの数日、ある時から12月25日という日の過ごし方が少し苦手になっていました。
写真も、クリスマスらしい写真がないので
少し前に友人と行ったスタバで見つけた、クリスマスカラーのフレーバーで、せめてそれっぽく(笑)
25日がどうのって言うと、恋人がいるいないで過ごし方が変わるみたいな話もあると思うのですが
まぁそれもなくはないです。
でもそれ以上に私には、埋めきれない穴がこの日にはありました。
クリエイティブな話にはほど遠いので、
今回興味をそそられない方はこのまま読まずに通り抜けて下さい。
クリスマスでの、私の父のことです。
私の父は、私が23歳の時に癌になりました。
ステージ3の胃癌でした。
癌細胞の切除の手術を含めて約一年ほど、抗がん剤治療などの闘病生活をしました。
手術から退院、そして自宅での療養と通院。
そして主治医から、「癌細胞がなくなったようなので、もう薬も卒業しましょう」と言われたのが、8年前の12月25日でした。
父にとっては
吐き気などの副作用と闘う、長い長い一年あまりの生活でした。
その日は家族とお祝いだねって話して。
小さな小さなケーキだけど一つだけ買って、楽しく過ごしました。
副作用で痩せてしまった父は、時々咳き込むようになり、猛々しいほどの生命力を感じる仕事人間だった時の面影もなくなっていました。
その代わりにこれまで言わなかったような、母の料理が美味しいと、母へ感謝の言葉を素直に言える優しさを持つようになりました。
その日のクリスマスも、変わらずに母の作るご飯を喜んで食べていました。
確か、好物のポテトサラダにはしゃいでいたような(笑)
のんびり年越しして、私が25歳になる誕生日が目前となったある日、突然父は倒れ、救急車で運ばれた後でそのまま帰らぬ人となりました。
クリスマスから10日後のことでした。
皮肉にも、本当に皮肉なことにも。
25日の喜びと幸せを全て裏切られたような気がして。
その翌年から私はクリスマスが嫌いになりました。
もちろん父を蝕んだ癌も、抗がん剤を与えた医師ですらも、そして何よりも。
咳き込む父に病院につれていこうとすると、父は頑なに拒みました。
父なりに再発を怖がっていたのだと思います。
風邪とは違う、何か違和感のある咳だったと、気づいていたのでしょう。
それを横で見ながら、気づいてあげられなかった自分。
父の恐怖感から助けてあげられなかった自分。
間質性肺炎は、突発性と進行が恐ろしく早いと医師や、看護の仕事をしている従兄妹も話していて、このことはきっと誰も止められなかったとも言ってましたが、それでも私は自分を許せませんでした。
嫌いなクリスマスが来るたびに、仕事で全てを忘れるように過ごしてきました。
キラキラしたツリーやイルミネーションや飾りを見ると、離れた対岸から見るような気持ちでした。
そんなこんなで、七回忌も終えた今年。
どうしてかこのモヤモヤが一段と強かった今年のクリスマス。
彫紙アートで繋がっている、他校の先生のブログのある記事に目が止まりました。
その先生が彫紙を始めた時、癌で療養中のお父様がいたという内容と
先生のお父様が亡くなられた時も、私と同じような気持ちで彫紙の先生や作品づくりに救われたという内容でした。
読みながら、自然と涙が出ていました。
気づいたらその先生へメッセージを送っていました。
最後に家族と過ごしたクリスマス
亡くなった父のこと
それが自分の誕生日に近かったこと
その先生の記事で、どこか自分も救われたような気がしたのです。
丁寧なお礼文の中に、先生から「つらかったよね」という文字を見て、
ずっと誰にも言えない気持ちだったんだなと、やっとその時にわかりました。
8年間、私はずっとずっと自分を責めてきました。
嫌いなこの日に、先生の記事と巡り会えたこと。
都合のいい考えかもしれないけれど
父ももう良いんだよ、と言ってくれたような気がしたんです。
今でも父の気配を感じることがあって。
私のせいなのかなと、やはりその都度思うこともあって。
だからこの出来事は、表向きはただの偶然でも、私にとっては大事なことのような気がするんです。
うまくは言えない、書けないけれど
一つ自分の区切りをつける時がきたのかなと。
そういう意味でも、忘れずにいたくてここへ書きました。
大切な人と過ごしたい一日が、沢山の人にとって幸せなものでありますように。
さて。
足を運んだ展示や、友人と遊んだ場所
描いてる年賀状のデザイン
まだまだ書くことは沢山です(笑)
今年のうちに更新できるのかな?私。
今後も順不同で、のんびり書いていきます(笑)
長くなりましたが、それではこの辺で。